宗像剛ブログ

2018.05.08

No,26 福島県立博物館 春の企画展

社長ブログ

相棒のA型フォードの部品もようやく完成、試走まであとわずかのところまでこぎつけましたが、今一つ時間が取れずにいます。社員の皆さんに「社長のパンパン日程」と笑われますが、ゴールデンウイークは耳をかすめて通り過ぎてゆくだけのようです。
そんな中注目していた福島県立博物館 - 春の企画展『匠のふるさと会津・技と祈りの建築文化誌』(6月24日まで開催)を見てきました。

観光客で賑わう会津を想定して9時には博物館駐車場に到着、9時半の開館を待ち一番乗りしました。

1:福島県立博物館全景
企画展は
Ⅰ.木を伐り、家をたてる
Ⅱ.神に祈り、家をまもる
Ⅲ.会津名工列伝
Ⅳ.屋根ふき集団会津茅手
Ⅴ.越後大工の活躍と会津 で構成されていました。

Ⅰ,最初にビデオの上映で迎えられました。奥会津では木の見立てから伐採まで行う職人をモトヤマ(元山・本山)と呼称するそうですが、現代も伐採作業に入るまで、自然が育んでくれた恵みと神に感謝し祀る幾つもの儀礼の段階を踏みます。雪深い森で自然と神に対峙するモトヤマさんの表情には遥か先祖から受け継がれてきた心が宿っていました。
伐採・木挽きの道具も展示されていましたが、すべて「国指定重要有形民俗文化財」であり匠の技の高度な事を示しています。それらの道具を使い大工が生み出す「木組みの形」にも感心しました。

Ⅱ,神に祈り、家をまもるではかつて「親が木を植え子が金をため孫が家を建てる」事は代々の思いの結晶であり、身近にあった神の存在と共にあったことがよくわかる。完成までの折り目節目の儀礼、魔よけの呪物や捧げものは興味深いものがありました。上棟式に女性の道具を飾ることがあるそうですが、これは棟梁がその女房の助言で窮地を救われた折に口外されること、女人の力を借りた事を恥じ、亡き者にしてしまったこと、いわゆる女人犠牲譚(にょにんぎせいたん)に基づくものとされます。火伏に見事な男根・女陰が祀られますが、営々と命をつなぐ象徴、降りかかろうとする厄難を排除する力が宿ったものとして祀られたのでしょうか。
博物館の記録では郡山市中田町と湖南町にも火伏の呪物はあるようなので見てみたいと思います。

Ⅲ,会津名工列伝では国重要文化財指定の「さざえ堂」建築に棟梁として携わった山岸喜右衛門一派が近年まで会津の建築文化を牽引してきたとあり、近世中期以降、大工道具の一大産地だった時代があったそうですが、昭和30年代まで30軒以上あった鋸鍛冶「中屋」の系譜は惜しむらくはという思いと共に興味深いものがありました。

Ⅳ,屋根葺き集団会津茅手では、村の共同作業であった茅葺屋根の吹き替えが専門的な職人集団の手に委ねられ、南会津の一派と喜多方から西会津の一派に分かれ方や農閑期には関東一円まで…もう一派はほぼ一年中浜通りから中通を舞台に活躍していたと言います。
いまや県内には継承者がほとんどおらず、県外の職人に依存する本県の茅葺屋根ですが、半世紀前までは郡山近郊の農村でも会津茅手の姿は見られました。
2:岩瀬湯本温泉「湯口屋」3:旧滝沢本陣横山邸4:棚倉町八槻都々木古別神社宮司邸
3&4は宮城県の職人集団の施行

Ⅴ・越後大工の活躍と会津では越後大工職人集団と会津のかかわりの深さがよくわかります。現存する会津の歴史的な名建築のほとんどが越後大工の手が加わっています。当時を考えれば会津にはより高度な技術を求める文化の高さと財力があったのでしょう。それは山を越え行き来する職人の往来だけに留まらず、姻戚関係も当然築かれただろうし、新しい文化も自然に根付いた事は想像に難くありません。幕末から維新後、会津藩が舐めた辛酸も越後大工達は行動を共にしてくれました。信義に熱く逞しい職人魂です。

 

 大宝院不動堂・・・1808年建立:会津美里町赤留字滝峠3496
博物館展示に越後大工の仕事が見事に残っている建物として紹介があったので、会津美里町まで足を延ばしました。
5:正面全景6:柱を垂直に昇る見事な透かし彫りの鯉7:鯉の拡大8:咆哮が聞こえそうな龍9:象の化身でしょうか?
村社として建立した赤留の御先祖にも頭が下がりますが、精緻で芸術性の高い彫刻は宮大工の技から離れ、大家の彫刻家の作品です。

 

越後大工は郡山にも足跡を残す。

一月訪問した郡山市三穂田町のH様邸。築150年の古民家の再生をお手伝いさせて頂きましたが、往時の技術の高さに話が及んだ際に「越後大工を呼んで建てたものと伝わっています。」とのお話でした。
10:H様邸11:H様邸の見事な梁

駆け足の調査でしたが、古民家再生も自分達の仕事と取り組んでいますが、歴史・文化・技術の継承、奥深いものがあります。
みどりの美しい季節になりました。さあ飛び出しましょう!